昨日半端に終わったカップ・マルタンに再度チャレンジと思ったのだが(パトリシアさんに忘れられないうちに(詳細は4月3日、下のほうをご覧ください))電車がなくて断念。
なぜなら例のCPE反対のストで電車は朝と夜で合計約10本のみ!
各駅停車のジュアン-レ-パンから11時52分の電車で行けると思ったのだが甘かった。その電車は途中のニースどまり。
ニースからカップ・マルタンに止まる電車がでるのは16時30!
すごい時間割でしょ?コートダジュールって。
平気で半日や一日を無駄にできるんです。
ここでは時計に秒針どころか分針さえないと心得て~。
そんなわけで車のない私はこの小さな町から出られない羽目に。
何しよう。することないから出ようと思ったのに。
こんな時はビーチで読書。
でも今日は気分を変えてヴィラの庭の芝生の上に寝っころがってみる。
波音は聞こえないけど海からの湿気が少し混じった風が気持ちいい。
天国でしか聞けないような美しい鳥の鳴き声が脳にα派を。
Gパン越しの太陽の暖かさが心地いい、、、。
また寝ちゃったよ。
これもコートダジュールの怖さ。
浦島太郎みたいに「ここは天国?」みたいな毎日だからヒトとしてはいいけどニホンジンとしては使い物にならなくなる。
そんなことさえもうつらうつらしながら。
だから知らぬ間に日焼けしてることもしばしば。
ふと我に返り、うつぶせた芝生に沢山の虫が忙しそうにしているのに気がつく。
「虫」という総称の中にもいろんな種類があって、飛ぶものもあれば忙しく働くものもあり、さらにその中にもそれぞれに役割があるんだなー。
一体、虫の中には他の虫の機能にあこがれるものもいるのだろうか?
たとえばアリの女の子が「蝶はいいな。こんなに働かないでさ。」とか。
、、、なんて考えてるあたりがもうかなり〝コートダジュール脳〟なのだが、でもどうだろう?
そんな虫がいるなら「そんなことに気をそらすより、持ってる機能を使ってわき目の振らずにその命をまっとうするほうが幸せだよ」とアドバイスすることだろう。
そして自分の人生振り返って見ると、ちらっとしか喋ったことない人に限って「~に向いてるんじゃない?」なんていう将来への客観的なアドバイスをさらっとくれてなかったかと思い出す。
そういう時は「そんな外見だけで」と取り合わなかったけれど、今にしてみるとあたらずとも遠からじ。
客観と主観がばちっとぶつかるところに社会が求められる自分の居場所があるのかねぇ?
だからフランスの公務員の意識は客観視する私たちから激しくずれてるし、私にはやっぱりコートダジュールがあっているのではないか?という結論に至る。
その頃にはやしの木の影はすっかり移動して私の顔をしっかり焼き始めていた。
海外防犯情報:○○を見せるべからず
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