コートダジュールは目下、夏前の気持ちよい暑さ。
春はもうすぐ終わりそうです。
なので桜が散り始めています。
(ただしずっと「桜」だと思っていた花が実は「アーモンド」らしいことを最近知ったので、それらが桜かどうかは不明です。)
桜、、、。
ニホンにいた頃はそれほどお花見にも熱心だったタイプではなかったのに
フランスではどんなへんぴなところに一本だけで咲いてても
妙に「はっ」として立ち止まって見上げてしまいます。
そして数秒間はそこで特別な思いを過ごす。
その時の思考回路はこんな感じ↓。
「あ、さくらだ!」→「うれしい」→「お花見!」→「同じノリになれる人がいない」→「お花見断念」→「ニホンでだったら一本でも桜ならスーパーヒーローになれるのに、コートダジュールに咲いたばっかりこのコはただの木になってるよ」→「こんなにキレイなのに」→「あぁここは異国」。
で、最後はなんともいえない切ない思いで締めくくられます。
「あ、さくらが」だけではフランス人には「そうだね。咲いてるね。春だもんね」くらいしか返ってこない。
フランスジンたちは素通りしていく、(つか咲いてることも気付かずにいる)中で
私だけが桜のテレパシーをキャッチしているかのような状態。
『国家の品格』の一節のように、桜にはニホンジン独特の思い入れがあるようです。
それは脈々と私の中にもあって、コートダジュールの桜の季節は特に
日々感じないようにしている異国に生きる切なさみたいなものを思い起こさせるのでした。
そんな日は「納豆そば」を「となりの山田君」のDVD見ながら、
床に座って日本式に食べ、ニホンを疑似体験してバランスをとるのだけど、、。
そんな日に限って、やれ祖父母の電話に出ろだの、そばを食べさせろだの
ノスタルジックに過ごしたい夜をじゃまするフランスジンが一名。
「そばがのびる」ことの重大性と「のびたら終わり」なことの危機感も
桜への想いと共に充分にわからせてやりたいわ。
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